「農の道」
「農の道」はどのように拓かれるのだろうか。
農の言葉に「稲のことは稲に聴け、田のことは田に聴け」というものがある。名言である。これは日本農学の先人・横井時敬の言葉とされているが、詳しいことはわかっていない。私は、この言葉を、時敬の独創ということではなく、農人たちの優れた、しかしごく普通のあり方を示す言葉として受けとめている。
この言葉には、稲は稲として生きていく、田は田として生きていく、そして、人は稲が稲として生きるあり方に、田が田として生きるあり方にかかわり、それを手助けしていくこと、それが農業技術というものだという、農についての深い認識が示されている。この言葉に則して考えれば、最初の問いへの答えは「稲の道は稲が拓き、田の道は田が拓く」ということになっていく。
いわゆる科学技術が主導する近代化が展開しているいまの時代において、「農業の道」はどのように拓かれるのかと問われた場合の、ごく普通の答えは、「農業生産者の意志と技術によって拓かれる」というものだろう。
詩人・高村光太郎は「僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る/ああ 自然よ 父よ/僕を一人立ちさせた広大な父よ/僕から目を離さないで守る事をせよ/常に父の気魄を僕に充たせよ/この遠い道程のため/この遠い道程のため」という詩を書いた(「道程」1914年)。力強く美しい詩だ。
私は、高校生の頃、国語の先生からこの詩のことを教えられ強く感動したことを覚えている。しかし、その後、農の道を歩むようになり、近代化の技術論に違和感を覚えるようになり、次第に見えるようになってきた農の道の基本、農業技術のあり方の基本は、どうもこうした光太郎的なあり方とは少し違っていると思うようになってきた。
稲が稲として生き、田が田として生き、そして稲と田が結び合って生きていく姿が見えてきたときに、農人はいま農として何をしたらよいかが見えてくる。農の道は拓くのではなく、開かれるのではないだろうか。あるいは、農の道は自ずから与えられるのではないだろうか。農の道について、そんなふうに感じるようになってきている。
道は拓く意志がなければ拓けない。しかし、道は拓こうとして拓けるものではない。道を求める模索の中で、あるとき道はふーっと見えてくるのではないか。道は道が見えてきたときに開かれる。光太郎の詩でいえば、僕の前に道はないのではなく、僕の前に道は自ずと開かれていくのではないか。おそらくこうしたことを宗教では神の導きと言うのだろう。
『有機農業の技術とは何か 土に学び、実践者とともに』(農文協、2013年) まえがきから
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